この場所は強風が吹き荒れるので体感温度はいつも零下で、サランネットについた雪も凍りついていた。このスピーカーは野外用にできていて、ヒーターと雨水抜きがついているので安心できる。またパワー的にも強力である。
このスピーカーからは、聖火台の下に配置されたファンファーレ隊の音、善光寺の鐘の音、大画面の音声などを出して、不足するものはセンターのXアレイのフロントL・RからディレイをMSL-10にあわせて補足した。
1997年12月に本番をシミュレーションをして、プロデューサー、演出スタッフ、出演者サイドから、問題点を洗い出していった。シミュレーションを本格的に行い、プランを組み直すには時間も予算も無かったが、音楽アドバイザー小澤征爾氏の音量と音色のスケール、野外と屋内の響きの違いを確認する事が大事なポイントであったので、本番での理想的な“音場”や、仮組みのシステムでの問題点について、話し合えた事で最終プランの仕上げにかかった。
小澤氏からは、会場全体を包み込むアンビエンスと、おなかにズシッとくる低音がもっと欲しいとのリクエストがあった。
内外野スタンドよりにサブウーファ(Meyer 650-R2)を20個追加する事で、低域補強を図った。
年が明け、1月11日マルチケーブルや電源コード類の配線とディレイスピーカーのポール建てが始まった。あらかじめグランドに埋め込んでいた配管ダクトの中を導き線を使ってセンターステージまでの通線は、施工専門のスタッフの指導で行った。ポールは客席の手すりを利用して固定した。
1月16日搬入が始まった。大雪の翌日なので搬入経路の雪かきに時間をとられる。現地で募集したアルバイターの中に建設現場経験者がいて、彼が運転するブルドーザーで、雪でスタックした機材を引き上げる事ができた。
1月21日、音場調整を2台のSIMマシンで始める。各スピーカーシステムの音質調整と、システム間のディレイタイムの設定をSIMエンジニアの森谷、湯澤両氏が様々な工事音にめげず、進めた。各部門も5時を過ぎると真っ暗のなかで作業を進めなくてはならず、焦る。
冬の野外の作業は、太陽が沈むととたんに温度が下がり、能率が極端に悪くなるので、朝8時から夕方4時をめどにして、雪の日の予備日も考えたスケジュールを考えなくてはと、改めて考えさせられた。
1月23日、リハーサルが始まる。土、日、祭日を中心に2月6日のランスルーまで、各部分リハーサルが繰り返し行われ、パフォーマンスごとの音場を決めていく。音楽の録音も残っており長野、東京を車で5往復するはめになり、疲れと、団体行動のストレスが、溜まっていくのが分かってきた。
音楽録音のミキサーの大野映彦氏とは、シミュレーションの時に本番でのイメージを話し合い、プレイバックとスピーカーシステムをを聞いてもらっていたので、NHKやサウンドイン等での夜中までの過酷な録音スタジオ作業の中でも、PAと録音間のよくあるギクシャクはなく、とてもスムースに仕事ができた。
PAスタッフのなかに音源製作チームを現場スタッフと別に組む事は、スケジュールがきつい仕事では絶対必要です。音源をDAT,CD,マルチDAT等に分ける際のサンプリング周波数の決定、バックアップ機器間の同期方法等の確認をしながら、本番テープを製作する作業が仕込みと重なるからです。
これを両立させようとすると、睡眠時間がなくなり、関わらないと、とんでもないテープができ上がってしまいます。
2月6日衛星回線を使ったランスルーが始まった。ボランティアの観客も動員されて、本番状況と同じ環境である。ベートーベンの交響曲第九番の映像と音声を圧縮して長野から発信し、ニューヨーク、北京、シドニー、ベルリン、ケープタウンに届け、それに合わせて歌ったコーラス隊の映像と音声が、複数の衛星から会場の隣の回線センターに戻ってくる。
回線センターには演奏会場の長野県民文化会館から、複数の映像、音声ラインがISDNで直接送られてきていて、そのすべての回線にディレイラインがインサートされている。
それらが、一番遅れてきたベルリンの信号(2.1秒遅れ)に自動的に時間を合わせ、放送、PAに分配されてきた。
PAでは、県民文化会館2ミックスに海外コーラス2ミックスと、ローカル ミックスされた会場の2,000人のコーラスの4パートをミキシングしてスピーカーから出した。
何事もなく無事“第九”を終了。明日の本番にむけての準備が始まった。
○開会式、2月7日
夜から未明にかけての素晴らしい景色、山並みに朝日がかかると、真っ白な稜線が漆黒から群青色に変わる空から現れる。朝、5時半からの準備、チェック、7時開場、10時第九の合唱指導、斉藤 勉氏現れ第一声、“声が途切れてるぞ!マイクを変えて!”直前までOKだったマイクがNG! (本番終了後、コネクター周辺の断線と判明) 森山良子さんのマイクとチエンジしてすすめる。その後小澤征爾による棒で、会場も盛り上がった。
私は、ロイヤルボックス側の浅利プロデューサーの席近くから、PAブースに会場の状況と、キューを送る。
11時、カウントダウンの後、開会式が始まる、ISDNで送り込まれた善光寺の鐘の音を聖火台の左右のMSL-10から流す。
全体の音場と遅延処理をPM4000のマトリックスとLCSで制御、CD3台,DAT2台、DA-98(8CHマルチ)のコントロールを、サウンドクラフト製のオートキューシステムの“きかっけくん”とLCSで行った。長くなった入場行進も予備曲でしのぐ。
前日“冬のオーケストラ”で録音した“マダムバタフライ”による聖火点火も済み、いよいよ“第九”である。
小澤征爾氏のタクトが振り下ろされた。自動時間制御の技術力と衛星回線使用料?億円の勝利、何事もないように観衆、テレビの前に映像音声が送られた。
世界各国から選ばれた"北のオーケストラ"の素晴らしい演奏と、会場の2,000人のコーラス隊が一体になって、TVでは味わえない時間の長さを感じさせない、緊迫感のある時空間を体験できた。